僕の釣り旅。
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 Published On Jan 7, 2024

この度、iPhoneの買い替えにより旧iPhone内の過去素材を繋げて数年分の釣り旅の記録をまとめてみました。またインスグラムのストーリーアーカイブからもダウンロードして一部を抜粋していますので画質はよくありません。なお、素材を片っ端から繋げてダイジェスト版として適当に編集してますので時系列ではありません。

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僕の鱒釣りは、毎年3月から10月まで(年によっては11月)、鱒たちと共に過ごすための旅に出ます。動画中のコメントや釣りについては僕が毎年200日以上フィールドを歩き続け(本州フィールドを含めると240日超)、経験したことと魚を通じて学んだことを皆さんとシェアしています。魚釣りは当たり前ですが魚が相手ですのでフィールドで直接、糸を通して魚たちに聞き続ける以外に自分の答えに辿り着けません。書店に行けば山積みになっている成功本を読んで成功なさった方はおそらくいないでしょう。なぜなら人は皆前提となる条件や時代背景、有するリソースが全く異なるからです。釣りもまた同様と考えています。

もちろん物事の成就探求には基礎となる前提知識が必要です。例えば起業に際しては自身の考えたビジネスモデルを具現化するために、そのビジネスの基礎となる戦略立案知識やマーケティング、プロモーション戦略、ファイナンス、税務/会計、人材採用教育、品質工程管理などの競争市場全体の共通ルールや法律などの知識は最低限必要です。釣りもまた同様ですが、あくまでも基礎的なものだけ学んでしまえばあとは自分の足で実際にフィールドを歩き、魚たちに聞いていく他ありません。仮説を立て、フィールドで魚相手に試してみて再びその結果を検証し、そしてまた修正しつつ新たな仮説を試していく…その永遠のPDCAの末に自分だけの釣りや自分ならではのオリジナルのスタイルが出来ると考えています。

こうして勝手に思い巡らせてみますと魚釣りもマーケティングという働きかけの対象が魚か人かの違いだけで、自分が期待する反応を相手から得ていくための試行錯誤という点では同じ思考のフレームワークなのではないでしょうか。そうした試行錯誤の先に自分のスタイルを作り上げた釣り師だけが見ることの出来る景色があるのではないかと思っています。しかしながら人はみなそれぞれ都合や価値観が異なります。あくまでも僕の個人的な解釈であることは動画閲覧に際し、前提としてご認識下さると助かります。重ねましていつもご覧頂きありがとうございます。

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渓流釣りが他の釣りと異なる点は、僕たちの遊び場が山や森の中というところではないでしょうか。それは『木と土』で成り立っている山や森を『杜』(もり)と読み、また一方では『杜』(やしろ)とも読みます。僕たちの先祖はその『杜』を心と身体を浄化させる祭場としての場と、豊かな食べ物の育む恵みの場として『杜』(もり/やしろ)として崇め、祈りの対象としてきました。

フランスロマン主義の文学作家シャトーブリアン(1768〜1818)は『文明の前には森林があり、文明の後には砂漠が残る』と碑文に言い残しています。人類は『杜』の恩恵によってあらゆる物を手にしてきました。しかしながら文明が進み、木を切り出し、岩を運び出すことで自然が失われていけば『杜』が消えていきます。皆さんも感じておられますように昨今のフィールドの渇水状況は深刻です。また近年急速に進む北海道における太陽光パネル設置も懸念せざるを得ません。

1万年以上をこの列島で生き抜いてきた僕たち先祖の知恵を、たかだか数100年にも満たない経済原理社会の論理で無視をすれば必ずその因果は返ってきます。先祖たちが『杜』に神を祀り、『杜』と共に生きてきた知恵を単なる信仰として軽んじるのではなく科学的意味として忘れてはいけないと感じています。でなければ1万年以上、生命が続くわけがありません。

豊かな『杜』に雨が降り、その一滴一滴が川となりそれはやがて海に降り魚貝を育みます。それがまた雨を降らせ、永遠の循環がもたらされます。その循環が全ての生命を基となり八百万の神に宿り僕たちを支えてくれています。自然こそが『神様』であり、それは『杜』の中にある…だからこそ『杜』を大切にしなければいけないという僕たち民族が脈々と引き継いできた精神思想です。

ですから僕たちの遊び場はそうした『杜』の中にあるという大前提の認識は持っておくことが必要だと思います。鱒釣りが他の釣りと異なるのはこうした信仰の対象として崇めてきた『杜』の中に立ち入った遊びだからです。そうした民族的価値観と思想の共通認識が持てれば、ゴミはもとよりライン屑ひとつ『杜』に残さないという心持ちになるのではないでしょうか。釣り人が居れば川(杜)が綺麗になる…と信じています。


(*)保守主義者か左翼リベラルの環境活動家のようですが決してそんなつもりはなく、純粋にひとりの釣り人としての気持ちです。僕を含め多くの日本人は無宗教ではあるものの無神論ではないと思うのであります。

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