【石田三成の居城】佐和山城(滋賀県彦根市)
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 Published On Feb 20, 2023

読み間違えている箇所がありました。(9秒)
「居城」→「きょじょう」訂正いたします。

今回は石田三成の居城として知られる佐和山城です。
佐和山城は鎌倉時代初期、近江源氏・佐々木定綱の六男時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まりといわれています。
戦国時代になると六角氏が支配していましたが、徐々に浅井氏が勢力を拡大し、小谷城の支城の1つとなりました。磯野氏が入城し、のちに猛将 磯野員昌が城主となります。
そして、1570年(元亀元年)浅井・朝倉連合軍対織田・徳川連合軍の姉川の戦いが起こります。磯野員昌はこの戦いで最も武功をあげましたが、姉川の戦いにより領国が南北に分断されてしまったため、佐和山城を守備する磯野員昌らは孤立し、1571年(元亀2年)に降伏します。
そして、織田氏家臣の丹羽長秀が入城しました。佐和山城は近江制圧の拠点となります。
1582年(天正10年)の本能寺の変後、明智光秀討伐に功があった堀秀政が城主となり、次に堀尾吉晴が城主となりました。
そして、石田三成が城主に任じられ、大改修を行い、山頂に天守がある近世城郭を築きました。
ただし、三成は奉行のため、伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継でした。
そして、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍は敗北。
徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃し、落城します。
三成の父・正継や兄 正澄、三成の妻 皎月院などの一族は戦死あるいは自害しました。
石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政が佐和山城に入城します。
そして、彦根城築城を計画しますが、直政は関ヶ原の戦いでの戦傷がもとで1602年(慶長7年)に死去し、直継が引き継ぎました。
大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させ
ています。
佐和山城は1606年(慶長11年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となりました。
佐和山城は徹底的に取り壊され、現在の佐和山城には、石垣の一部、土塁、堀、曲輪を残すのみとなっています。

次回は彦根城です。

※内容に間違いがないよう、慎重に動画を作成しておりますが、誤りがある可能性があります。もし、誤りがありましたら、コメントを投稿していただけると助かります。
概要欄やコメント欄で訂正させていただきます。

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